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 この頃、日蓮聖人は、御年35歳。

 建長5(1253)年4月28日、安房の国清澄において初めて「南無妙法蓮華経」のお題目を唱え、新しい宗旨を建立し、時の都、鎌倉においてこれまでの仏教のあやまりであることを説き、幕府に『立正安国論』を提出されました。

​ しかし、結果は逆に幕府の迫害を受けることとなり、龍口の法難、佐渡流罪など、様々な法難が相次ぐ事となります。

 そして文永11(1274)年5月、三度国家を諌暁して「国王のもちいざらんに、その外の法門申して何かせん」と、最後には甲斐、波木井郷身延山において無言の諌暁に入られたのでした。

​ ちょうどこの頃、甲斐国内を遊化された日蓮聖人は、たまたま夏目原の地を通過され、かの霊像を拝された所、本師釈迦牟尼仏の尊像であったので、ただちに法華経をもって開眼の供養をされました。そして里人たちの教化もされたので、釈迦仏はいよいよ霊験があらたかとなり、日に日に信仰する人が増していったと伝えられています。

日蓮聖人と霊像

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