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 御遺文に「諫臣国にあれば則ちその国正しく、爭子あれば則ちその家直し」とあり、諫言耳に逆らうという譬えでありますが、掃部介の願いは聞き入れられなかったばかりか、信虎は掃部介の自害の翌月、天桂和尚の為、甲府館の脇に大泉寺を建立しました。これがのち信虎の菩提寺となります。

 しかし、法華経に、「もしまたこの経典を受持する者の過悪を出だせば、実にもあれ不実にもあれこの人は現在に百頼の病を得ん」とあるようにか、間もなく信虎は、不治の病にかかってしまったのでした。

 百法を尽くすも成すすべがなく、時の人々は、あの病は法華の行者である掃部介をあえなく果てさしめた報である、とささやきました。

​ 神仏への祈りも、薬石もむなしく、信虎は、ようやく自ら掃部介に対する前罪を悔いました。

 すると一夜の夢に掃部介が現れ、霊験あらたかな御仏の事を知らせたのでした。探索させたところ、夏目原の釈迦仏を見出しました。ただちに病気平癒の祈願を行い、たちまちに回復した為、かの釈迦仏を迎え、掃部介の冥福の為一寺を建立することを発願したのでした。

​ 信虎は、甲府の館の南方・穴山小路の地に一宇を建立し、時の身延山久遠寺第十三世日伝上人を招き開山としました。

信虎公草創の縁由3

信虎の病
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