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 天正10(1582)年6月、武田氏を滅ぼした織田信長は明智光秀に殺され、一時空白となった甲斐には徳川家康が入国し、平岩親吉を甲府城代に命じ、ついで翌年、家康自ら国中を巡視しました。

​ この時、家康は当山にも来り、時の住職(10代)日栄上人より草創の由来を聞き、眞立寺を信立寺と改めるべきことをすすめたのでした。

 以来、今日のように信立寺と称するようになりました。

 今ここで寺号についてみてみると、初め、眞立寺と称し、また新立寺といい、のちに信立寺と記すようになりました。

 最初の眞立寺というのは、草創の動機である信虎の家臣 遠藤掃部介の法号を「眞立院勵忠日廣信士」と称するのに由来します。新立寺と号したのは『略縁起』によると、信虎が「新たに道場を営む」という意味からであると記し、信立寺は、信虎による建立という事実によったものと伝えています。

​ また、山号を広教山というのは『古縁起』に「貴賎あまねく法怨につらなり、大乗の教法を授け奉る故に、広教の山号あるにあらずや」と言われています。

徳川家康と寺号

― 信じて立つ寺ー
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